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ぐるぐるぷらぷら

Silence is wisdom when speaking is folly.

変わっていくことを受け入れられるか

 誰しも変化をしていくのは当然のこと。

 自分の変化は手に取るように分かる。体の衰えや考えの捉え方など自身に対するものから、洋服の好みや付き合う友人、手に取る本や聴きたい音楽、食べたいと思うものまで一年前の自分とは何から何まで違ってくる時もある。一年前の自分とは全てが違う。

 それを何故だか他人は変わらないと思いがち。分かってはいるのだが、どうにも受け入れがたく感じる時があるように思う。あの人のこんな考え方が好きだったのに、あの人のあんな服装が好きだったのに、恋心が醒める一因になるのは大抵こういう事情だ。

 

 恋が愛になり情になった時、もしくは、恋も愛も関係のない時、相手の変化を受け入れられるかどうかはその時になってみないと分からない。私はほぼ受け入れられない類だ。こざっぱりとしていた彼が長期休み明けに丸坊主の鼻ピアス野郎になっていた瞬間に、どうやって接したらいいのか分からなくなる性質だ。友人が「○○が好き」と共通の友人の名を出してきた瞬間に、お互いとどう距離を取ったらいいか分からずものすごく遠くに距離を置く性質だ。友人が参加したセミナーの感想をSNSにアップした瞬間にブロックする性質だ。いや最後のやつは誰しもそうするだろう。

 その変化をどうやって受け止めていいのか分からずに逃げてしまう。シレっと付き合うにはあまりにツッコミどころが多すぎるし、自分が面倒くさいことに巻き込まれてしまう可能性もある。なのであまり人の変化を喜ばしく受け入れられない自分がいる。

 

 ただ、おかしなことに夫についてはそこは不問なのである。聴く音楽の趣味も真逆なら服装の趣味なんてとうてい受け入れられるものではない。それなのに何故だか大丈夫なのは、こちらの変化を意にも介さないからだろうと思われる。

 突然不良になって朝帰りが続いても、酔っ払って転んで血まみれになって帰ってきて爆睡していても、無職になって引きこもっていても、あまり気にしてないように思う。気にしているのだろうが口を出してくることはない。一年に一度ぐらいチクリと言われ居心地の悪い思いをする時はあれど、それぐらいだ。

 ただ毎日せっせと家事をし晩飯を作り待っているのはどうにも受け入れられないようで、今までにないぐらいソワソワ気を使ってくれるのはどういうことだ。そっちのほうが納得いかない。

 

 言いたいのはそういうことではない。

 相手の変化を受け入れられる器を持てるようになるにはどうしたらいいのだろう。もうこうなったら親の育て方の問題にするしかないのでは、と親からしてみたらはた迷惑な考えに至るのだけれど、この問題はあまりに根深い、承認欲求が強過ぎて人の承認欲求まで受け入れられないとかいろいろあるんだろうな。

 

 あの人は変わっていても、まだ私の知っている私の好きなあの人の部分が残っていたらいいのに、それでも新しい関係性を築ける気がしないのは逃げているからで、一度盛大に破壊しないとダメなんだろうな、と重い腰を上げられずにいる。それだけの関係性でしかなかったということ。

二次元との付き合い

 小さい頃からチャンネル権は4歳下の弟に握られていて、自分の好きな番組を見る機会が少なかった。平日夕方にはシティーハンターを見たかったのにいつも聖闘士星矢北斗の拳ばかり見させられていた。どちらも小学生女児には興味が持てなかった。

 そもそもアニメ不毛地帯に生まれ育っているので、日曜の夕方は国民的アニメばかりだし、夜は弟に合わせて21時に寝かせつけられてたし、夏休みはアラレちゃんかキテレツ大百科のループだったし、あまりテレビに興味が持てないまま大人になってしまった。今でもテレビを付ける習慣がなく、まったく付けない日もザラだしDVD見終えた後の止まったままの画面でいることもあるし、家人が付けたテレビを付けっぱなしにして放送終了まで放っておくこともある。

 テレビでさえそんな状況なので、映画を見たり動画を見たりすることも苦手だ。多分座って動く映像をじっと見続けることが苦手なんだと思っている。ドラマやバラエティを見ることもあるが、何を言っているのか聞き取れないのと因果関係があるのかは分からない。

 

 アニメの話。

 漫画は大好きである。小さい頃から「なかよし」を毎号買ってもらい、弟が買ってもらっていた「コロコロコミック」も読み、父親が買っていた「ビッグコミックオリジナル」も読み、どこからか借りてきた「美味しんぼ」(ただし10巻まで)と「クッキングパパ」(これも10巻ほど)は繰り返し繰り返し読んでいた。時々連れて行ってもらっていた喫茶店では「サンデー」を読み、「ジャンプ」を毎週買うようになり、大きくなってからは「マガジン」「Kiss」を読み「ビッグコミックオリジナル」もずっと読んでいた。未だに買い続けている単行本は何種類かある。

 

 これだけ漫画が大好きなのに、何故だかアニメを見られない。

 前述の通り、動いているからだと思っているのだが、どうにも違和感が拭えないのだ。世界的に有名なアニメも、国民的アニメも、巷で大流行りのアニメも、何もかもムズムズして見ていられない。ましてやキャラクターに思い入れることも出来ない。

 

 感情移入することが苦手だというのに他ならないと思っている。

 もちろん本や映像を見て泣くこともある。それとはまた少し違う。キャラクターに愛情を傾けることはないし、自分を重ねることもない。アニメが心に響いてくることがないというのは人生において楽しみや喜びの大きい部分が欠落していると強く感じる。きっとアニメを楽しめる人にとっては、その世界は凄まじく豊かで魅力的に見えているんだろうと思うと本当に羨ましい。何度も何度も挑戦してみたけれど、どうにもこうにも見ていられないのだ。悔しい。私もその世界を堪能したい。

 

 ちなみに漫画のキャラクターにも小説の登場人物にも思い入れることはない。

 あくまで現実に手が届く範囲の人間にしか向き合えないという性質は、とても寂しいことだと思っている。

 

 

※追記

 

テレビや映画や動画を見るのが不得手なのは、ペースの主導権が自分にないからだと気付きました…。鈍臭いからグングン進められると付いていけないし、情報量が多くて理解が追いつかないから必然的に見なくなるってだけですね。

 もちろんじっと集中して見続けるということも苦手なんですが。

思い出の上書き

 酒を飲んでやらかすことが多々ある。泥酔して道端に寝たり器物損害をするとかではないのだが、いらんことを口走ったり、誰よりもバカをしたりという明らかに調子にのってる類でいろいろやらかす。

  どれだけ飲んでも記憶をなくすという便利な機能はついておらず、毎回毎回やらかしては翌日二日酔いの残るダルい体を布団に埋め頭を抱えて発狂しそうになり、数日経てばその思い出を忘れたいがためではないにしろ、また飲みに出かけまたやらかす。ほとほと呆れる頭の悪さだが、酒を飲むことも大好きだし、飲んで楽しくはしゃぐこともまた大好きなのだ。

 

 嫌なことは楽しいことで上書きするのが一番。

 何かが間違えているのは薄々感じているが、見て見ないフリをする。

 思い出はしんどいから、早く上書きしなきゃ。

男と女の友情

 男と女の友情はある程度成立すると思っていて。

 成立しづらいのは「恋」にしたがってしまうからだと思う。

 

 「尊敬」する気持ちなんかは特にそう。会うのを楽しみにしていたり、別れがたく思ったり。男と女というだけで、もしかしたら恋かもしれないと思う気持ちは男と女という異性間でしか生まれない。(ジェンダーの話は置いておく。)同性間での友情でもその感情はありえるのだ。それを異性だからと恋愛にしたがる傾向にあるんだと思う。

 

 男と女には決定的に溝がある。それは身体的にも遺伝子的にも絶対に埋められない溝だ。それをやすやすと感情が乗り越えられるはずはない。感情が乗り越えられる時は、自覚した理性がお互いにある時だ。

 

 男同士の集まりに女は入れない。

 女同士の集まりに男は入れない。

 男は女を理解できない。

 女は男を理解できない。

 安易に踏み込む場所ではない。

 

 そう思うととても心穏やかに過ごせる。

見逃す才能

 私が面白いなぁ、と感じる人が持っている才能のうちの一つは「見逃さない才能」だと思う。それを「記憶しておく」という才能も必要だろうけど、まずは「見逃さない」ということが大事。

 「見逃さない」ということは「違和感」を持つということと同意であると思う。

 街中の普遍的な人たちに混じる小さな違和感。何の変哲もない公園に宿る小さな違和感。昨日と同じように過ごす今日に感じる小さな違和感。その違和感を違和感として感じる。そして表現できるのが一つの才能のような気がしている。とても羨ましい。

 本を読みながら、自分が抱えていた何とも形容しがたい感情を文字で表現された時、ぐっと首を抑えられた気がする。その部分だけ何度も何度も読み返し、どんどん息苦しくなってとりあえず前に進める。でもその苦しさがまとわりついてしばらく話が入ってこないということもしばしばある。

 変わった人に遭遇するということも「見逃さない」才能かもしれない。

 私の周りには変人と形容されるような人はいないと思っているが、見る人が見たらとても変な人かもしれない。それは自分かもしれない。だけども皆生活を滞りなく送っていて、話していても考え方が変わってるとか、動きがおかしいとか感じたことがない。至極真っ当面白みもなく日々を営んでいる人たちばかりだ。あの人やこの人が書いているような人は本当に存在しているのだろうか、とすら感じる。もしかしたら実は出会っているのだけど、あまりに変わっているので怖くなって存在しないことにしているとしたら、ある意味一つの才能なのかそれは。

 

 「見逃さない」人たちは「記憶力の良い」人たちなのか。それとも小さな小さなたくさんの引き出しにしまってある「記憶を取り出す」ことが上手い人たちなのか。どちらの才能もないので、本当に羨ましい。

ランドセル

 スーパーへ行く時間は、だいたい小学生の下校の時刻と重なる。数人でワイワイしながら帰っていく小学生は邪魔だ。危ないなぁ、と思いながらぼんやりと意識を遠くに飛ばす。あまり子供が得意ではない。

 

 今ではいろんな色のランドセルがあって、皆自由に好きな色を選んでいると聞いた時には、いよいよ時代は変わったな、と思った。

 もちろん私の小学生時代は男が黒・女が赤。それ以外は見たことがない。形もほとんど同じだった。それを小学校入学前に誰かしらに購入してもらい、卒業までの6年間使い続ける。全校生徒が一千人近い田舎のマンモス校だったが、違う色を使っている子を見たことがない。田舎の保守的さを差っ引いても、ランドセルは黒と赤に決まっていた。

 

 ふと目に入った男の子は紺色のランドセルだった。男の子はだいたい黒か青系統。女の子は赤か、赤よりのほんのりとしたピンク。案外ピンクピンクしてる子はいなかった。ランドセルは意外と高いと聞くので、何度も買い換える前提では買わないだろう。ということは5歳ぐらいであまりに突拍子もない色にすると浮くぞ、ということが分かっていたのだろうか。それとも親や祖父母に勝手に買い与えられたのか。言い聞かせられて、やむなくその色にしたりしていたのだろうか。本当は蛍光黄緑のランドセルが良かったのに!とか言ったりしている子もいるかもしれない。そんな色のランドセルがあるかは知らないけれど。

 

 目の前の横断歩道を横切る集団小学生の最後方で、もうだいぶ身体が大きくなっている三人組の女の子が点滅した信号を小走りで渡っていった。その女の子の一人が黒地にピンクの縁取りがしてあるランドセルだった。

 いいな、と思った。

 「黒といえば男」な色だけど、ピンクの縁取りによってそれが女の子のものだと分かる。もし地色が水色だとしたら他の子より浮いてしまうかもしれないが、それは多数の男の子が使っている黒だ。「黒なんて男だ!」とからかわれたことも一度や二度ではないかもしれない。それでもその女の子は「数年間」「数人の友達と一緒に」そのランドセルで過ごしてきたと推察する。ということはランドセルの色がどうであれ、その子には友達が数人いるし、数年間過ごすにはランドセルの色などさしたる問題ではなかったんだろう。

 

 幼稚園年長の時、自分の着ていた水着が嫌で嫌で仕方なく登園拒否をしたことがある。そんな理由で親は納得するはずもなく、無理やり集団登園の列に突っ込まれた。

 私の着ていた水着はオレンジで、スカートやレースがピラピラしている30年以上前の当時では普遍的な幼児の水着だった。今でも実家に帰ればその水着を着て庭のビニールプールではしゃいでいる写真があるはずだ。あまり洋服に好みを主張するようなおしゃまな幼児ではなかったと思う。それでも年長の時のとある夏のプールの日にその水着が突然嫌いになった。

 理由は簡単だ。年長にもなれば、おおよその幼児の水着はスクール水着にかえられたからだ。もちろん赤や黄色の派手な水着の子もいたが、とても少数だった。私は何も考えず着ていたオレンジの水着が恥ずかしくなったのだ。

 親からしてみたら、なんでそんなことで嫌がるのか分からなかったかもしれない。でも本人が相当嫌がっていたので次のプールまでにスクール水着を用意してくれていた。

 

 周りから浮くのが嫌だった。ランドセルも赤かった。他の人と違うことをしたくなかった。私は鈍臭くて他の人が出来ることが出来ないということが多かったので、せめて身なりや行動だけでも目立ちたくなかった。他の人がやっていることは、やりたくないことでもやった。習い事も友達が通っていたら通った。そうやって大きくなっていった。

 そして大人になった今、服装はモノトーンばかりだし、髪型もごくごく一般的。突出しているものは何もない大人になった。それでも成長過程の所々にはつまずくことがたくさんあったし、朗らかな学生生活を送ったかと言えばそうではなかった。

 何を怖がっていたのだろう。

 大人になればなるほど、誰かと同じという喜びは、あまり安心感を与えてくれるものではないと分かってくる。それでもiPhoneを持ち、スターバックスに入れるようになり、誰かと「そうそうそう!」と共感し、Facebookでいいねを押し、シンプルな服装をし、空っぽのまま街中を歩いていく。誰かと同じであるということは夢を諦めた一因でもあるのに、誰かと同じであるということを止められずにいる。

 

 あの黒いランドセルの女の子は、そんなことを感じることなく成長していくのだろうか。その世界はどんな風に見えるのだろう。それともいつしか私と同じように誰かと同じことに安心する人になっていくのか。いや実際は誰かと同じでいたいと思っているのかもしれない。

 小学生に戻っても、きっとあの黒いランドセルは選ばないだろうなと思う。ただあのランドセルはとてもかっこよく、可愛かった。

道端の死骸

 嫌な思い出がある。

 その思い出のはじまりは2012年の頭で、終わりは2014年の頭。そこからグダグダして2015年の夏に完全に終わらせた。たった3年半でも生涯忘れることなんて出来やしないであろう、とても大切にしたいものだったが、あまりにしんどいし疲れたので辞めた。

 時間薬を期待して、全ての思い出が5年後までに昇華できたらいいなと思って離れた。どんどん離れて興味も執着もなくなればいいと思った。5年後にはだいたいどんなことも笑って話せる思い出になるというのは経験から分かっている。2020年の夏以降、また新しく思い出を作っていけばいいと思った。

 

 思い出というのは苦く悲しいものでも、どこか耽美さを纏うものなのか、それともただの知的好奇心なのか、時々その箱に触れてみたりしてしまうものである。そのたびに空っぽの箱の中身に落胆したり、想像より薄汚れている様に嫌悪感を示す。それでもやめられないパンドラの箱。よっぽど当時に手をかけ想いを入れ装飾してしまったらしい。

 

 今日も何気なく箱を開けた。食べ物を口に入れたら咀嚼するように、照れたら髪を触るように、疲れたら首を回すように、あたかもプログラミングされているとばかりに身についた動きで箱を開けた。もう大丈夫だと正直思っていた。大丈夫ではなかった。あらゆる不幸を出し切った後の片隅に残された希望に期待し過ぎていた。まだ不幸は全て出されていなかった。

 息苦しくなってすぐ箱を閉じて大きく息を吐いた。

 気をそらす為にだんだんと日が陰ってきた寒そうな外を眺めた瞬間に気付いた。

 

「これは道端に落ちている死骸をわざわざ確認しに行っているようなものだな。」

 

 そうか、あの思い出は死骸か。と思ったら、ふふ、と笑いが込み上げてきた。

 私は何をこの数年、わざわざ死骸を見に行っては、うわ、と思ったりしていたのだろう。あれはパンドラの箱ではない。なくしたマフラーでもない。誰かの落し物でもない。ただの死骸だ。私のものでも何でもない、ただの行きずりに視界に入ってしまった何かの物体だ。綺麗なものだと思っていたのは生きていたからだ。死んでしまったらそれは物質だ。近寄れば不快な気持ちになるが、近寄らなければ良い。

 

 一気に馬鹿馬鹿しくなって、ほんの少しだけ残していた思い出に関わるものを捨て、このブログを更新する。それでも2020年の夏には、どうなっているのか待ちわびている節もあるあたり、あまり懲りていないらしい。