ぐるぐるぷらぷら

Silence is wisdom when speaking is folly.

本と風呂

 本と風呂、どちらも億劫と思える両巨塔である。

 風呂に入れば濡れる。濡れたら乾かさねばならない。湯船に浸かっている間は暇。夏は暑く冬は寒い。入ったら隅々まで満足するまで洗わねば気が済まない。疲れる。だから風呂に入るのは面倒くさい。しかし社会生活を営む上では風呂に入らないということはありえない。何せ臭いが人様にご迷惑をかけるとあらば、それは面倒でも億劫でも入らなければならないだろう。私ごときが人様にご迷惑を掛けるのは一つでも減らさなければいけないのだから。

 本を読むのも似た面倒さを感じる。

 まずは長時間同じ体勢でいなければならないことが苦痛である。座っていても寝ていても右を向いても左を向いても上でも下でも身体にどこかしらの負担を感じる。そして読んでいる本の内容を人に知られるのも嫌だからブックカバーを付けたまま読むのだが、そのブックカバーがだんだんとズレてくる。読む本毎にブックカバーを取り付けるというマメな作業は出来るはずもなく。いざ読もうとすれば腹が減っていることに気を取られ、腹を満たしている間は書籍という高尚なものを近付ける訳にいかずゲームで数十分ほど目の暇つぶしをしている間に気付けば数時間なんていうこともザラである。他愛のない時間を過ごす間、本の存在を右肩あたりで感じながらも「また体勢が整ったら…」という言い訳の海に沈めて麻雀ゲームを始めたりする体たらく。

 何より本の内容に没頭する集中力が足りないのだ。

 音があればそちらに気を取られる。喫茶店で読もうとすれば隣のサラリーマン二人組の会話や、母親ぐらいの女性三人組のはしゃぐ様、うら若き女性たちが同じテーブルについているのに話すことなくスマホに向かっている姿を見ると、どうしても気に取られてしまうし、音楽を聴いているとその音楽に夢中になってしまう。どうも私は目よりも耳のほうが脳との繋がりが強いらしい。

 日々の諸用を済ませトイレに行き、無音の状況を作って飲み物やタバコを目の前に据え置く。そうしてから私の読書の時間が始まる。ほら、面倒くさいでしょう。

 そして‪読書とは、読みたい所を読むまでの我慢の所業である。ついつい小説は頭を読んでラストを先に読んでしまう。これが一番安心して楽しめる方法だからだ。‬ラストが気になって気になって話が頭に入ってこないより健全な方法であると思う。そして何度も何度も読み返す。気に入れば作者が勘弁してくれというまで何度も凌辱の限りを尽くす。

 本は読まなくても人様にご迷惑を掛けることは極少ないが、風呂には入らなければならない。風呂に入ることは少なからず異性に対する良く思われたいという邪な感情が入らせるに至るが、本を読まないことを責めてくる異性は鼻から好意を持たないことがますます私を読書という行為から遠ざける。

 

 本も風呂も、どちらも億劫と思える両巨塔である。

 ただし何が厄介かというと、どちらもやれば快感なのである。ただそこに辿り着くまでがとても億劫なだけだ。

 分かっていても億劫なのである。