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ぐるぐるぷらぷら

Silence is wisdom when speaking is folly.

道端の死骸

 嫌な思い出がある。

 その思い出のはじまりは2012年の頭で、終わりは2014年の頭。そこからグダグダして2015年の夏に完全に終わらせた。たった3年半でも生涯忘れることなんて出来やしないであろう、とても大切にしたいものだったが、あまりにしんどいし疲れたので辞めた。

 時間薬を期待して、全ての思い出が5年後までに昇華できたらいいなと思って離れた。どんどん離れて興味も執着もなくなればいいと思った。5年後にはだいたいどんなことも笑って話せる思い出になるというのは経験から分かっている。2020年の夏以降、また新しく思い出を作っていけばいいと思った。

 

 思い出というのは苦く悲しいものでも、どこか耽美さを纏うものなのか、それともただの知的好奇心なのか、時々その箱に触れてみたりしてしまうものである。そのたびに空っぽの箱の中身に落胆したり、想像より薄汚れている様に嫌悪感を示す。それでもやめられないパンドラの箱。よっぽど当時に手をかけ想いを入れ装飾してしまったらしい。

 

 今日も何気なく箱を開けた。食べ物を口に入れたら咀嚼するように、照れたら髪を触るように、疲れたら首を回すように、あたかもプログラミングされているとばかりに身についた動きで箱を開けた。もう大丈夫だと正直思っていた。大丈夫ではなかった。あらゆる不幸を出し切った後の片隅に残された希望に期待し過ぎていた。まだ不幸は全て出されていなかった。

 息苦しくなってすぐ箱を閉じて大きく息を吐いた。

 気をそらす為にだんだんと日が陰ってきた寒そうな外を眺めた瞬間に気付いた。

 

「これは道端に落ちている死骸をわざわざ確認しに行っているようなものだな。」

 

 そうか、あの思い出は死骸か。と思ったら、ふふ、と笑いが込み上げてきた。

 私は何をこの数年、わざわざ死骸を見に行っては、うわ、と思ったりしていたのだろう。あれはパンドラの箱ではない。なくしたマフラーでもない。誰かの落し物でもない。ただの死骸だ。私のものでも何でもない、ただの行きずりに視界に入ってしまった何かの物体だ。綺麗なものだと思っていたのは生きていたからだ。死んでしまったらそれは物質だ。近寄れば不快な気持ちになるが、近寄らなければ良い。

 

 一気に馬鹿馬鹿しくなって、ほんの少しだけ残していた思い出に関わるものを捨て、このブログを更新する。それでも2020年の夏には、どうなっているのか待ちわびている節もあるあたり、あまり懲りていないらしい。